金沢大学附属病院 整形外科

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整形外科 歴代教授:高瀬 武平

 整形外科学講座の必要性は,交通事故や外傷が増加し始めた第二次世界大戦以前より認められていた.大正11年(1922),宮田篤郎の後を受けて教授に招かれた石川昇は,整形外科教授候補者として選ばれ招かれているし,昭和24年(1949)に新しくできた大学基準に基づき,いち早く整形外科学教室をつくることが論議されている.

実際に整形外科学教室として具体化するのは,昭和28 年(1953)7月で,当時,第一外科学教室(久留外科)の高瀬武平助教授が初めて整形外科学の講座主任として発令されたことに始まる.同年10月26 日,学生に対して初講義が行なわれ,ここに本学の整形外科学講座が正式に開かれた.当時,教室の開設とともに参加した者は,これより先,昭和26年 (1951)10月より1年半にわたり東京大学整形外科学教室に研究出張し既に帰任していた第一外科学教室の中村富夫講師を初めとし,第一外科より野村進(現名誉教授),沼田仁義,志羽孝,当時インターンの木嶋光仁,米沢繁男の計7名であった.翌,昭和29年(1954)4月より講座主任高瀬助教授は,阪大 (清水源一郎教授),京大(近藤鋭矢教授),東大(三木威勇治教授),九大(天児民和教授)へ内地留学のため1年問出張を命ぜられ,この間昭和29年 (1954)12月付をもって教授に昇格(44才)し,ここに金沢大学整形外科学教室は名実ともに講座としての形態を整えた.高瀬教授帰学後,教室の内容も日々に充実し,また教室員も毎年増加し,その発展は著しいものがあった.
 
昭和31年(1956)11月には開講3周年記念として大阪大学,清水源一郎教授(11月23日),東京大学,三木威勇治教授(11月26日)を招待して記念講演会を開催した.昭和33年(1958)3月,中村富夫助教授の富山労災病院転任に伴い,野村進講師(現名誉教授)が助教授に就任した.昭和34年(1959)3月有名な西ドイツ,ミュンヘン大学整形外科マックス・ランゲ教授の招聘により,高瀬教授は 1年問の留学を命ぜられ同大学にて10ヶ月間研究を積み,その問欧州各地整杉外科学の視察を行ない,帰途各地を視察して昭和35年(1960)1月に帰国した.

この間,教室員も増加し,北陸3県を中心として各病院に分散していたので,教室員一同を会するために昭和34 年(1959)7月福井県芦原温泉で第1回同窓会を開催した.又,各病院に整形外科が続々と開設され,外科集談会の演題にも整形外科方面のものが増加する傾向にあったので北陸整形外科集談会を創立することになり第1回総会兼研究発表会を昭和35年(1960)6月19日に金沢で開催した.当時の会員数は約 150人であり以後,今日(2006年3月現在)まで第173回を数えている.昭和36年(1961)4月8日には第18回中部日本整形外科災害外科学会を主催(金沢商工会議所)する等,学術面でも充実期をむかえた.昭和37年(1962)4月には高瀬教授が附属病院長に就任し二期連続して病院の発展に貢献された(~昭和41年3月).また,昭和38年(1963)にはイタイイタイ病文部省科学研究機関班長となった.昭和38年(1963)9月には開講10 周年記念会を金沢ビルで行ない,「同窓会報(創刊号)」と「金沢大学医学部整形外科学教室開講十周年記念業績集」を発行した.この時点で7人でス夕一トした同門会員数は77人,関連病院も昭和32年(1957)10月に富山市民病院を初めてSitzeにして以来24と増えるなど大きな飛躍をとげた.教室創生期を開講10年とするならば順調なスタートであった.

しかし,開講当初は当教室には独立した建物がなく旧館にあった当時の第一外科教室に問借りをしていたので,昭和28年(1953)12月に南病棟の一隅にある宿泊所を改造してここに整形外科学教室および外来診療部門の体裁を整えた.その後,研究と診療の場所を確保するため,多くの苦労が重ねられ,昭和29年 (1954)7月より南病棟の階下を使用することになり,ここに22ベットを確保し,更に理学療法室,レントゲン室を作り,整形外科病棟の階下を改造して手術室とした.以後は患者の急増とともにベット数不足が常時教室の悩みであり,昭和32年(1957)9月に第三病棟が完成したので,研究部門を旧整形外科棟に,診療部門を南病棟階下に,病室を北病棟に移し52ベットを確保した.その後幾多の改築移転を経て昭和39年(1964)3月,第三病棟一階へ病室が移転し,さらに昭和42年(1967)11月に研究棟竣工と同時にその6階へ教室が移転した.さて,開講12年目昭和40年(1965)には第18回日本筋電図学会,第9回日本低周波学会を十全講堂で主催,教室は益々充実していった.
 
この頃の教室の状況は,十全同窓会会報によると次のようであった.

「教室関係者は日夜研究あるいは臨床に励んでおり,高瀬教授を中心とする骨腫瘍研究班は組織培養に於けるヒト骨肉腫細胞の株化に成功した.さらに細胞科学や電子顕微鏡における骨腫瘍細胞の微細構造の研究,および実験骨腫瘍におけるSr89骨肉腫の発生に成功など多大の成果をあげ,日本国内ばかりでなく昭和41年(1966)にはアメリカ整形外科学会において発表,評価を受け,高瀬教授は日本整形外科学会の骨腫瘍研究委員長に推されますます多忙の毎日を過ごされるようになった.また野村助教授を中心とする末梢神経再生と機能に関する研究は昭和40年(1965),42年(1967)日本整形外科学会総会において協同研究,招待講演を担当され感銘を与えた.さらに清水講師を中心とする筋電図班は誘発筋電図と取り組み,その成果は昭和38年(1963),39 年(1964),日本筋電図学会のシンポジウムを担当する程に評価をうけた.日課として教室員は毎朝8時半医局集合,当直医の術後,重症,入退院患者の報告が終わると,月水金は手術,水木土は回診につく.なお,木曜午前は抄読会,金曜午後にはクリニカルカンファランスがあり,適宜他科専門医を招いて苛烈な討議が展開される.
 このように勉学づくめで息つく閑もないが,その反面遊ぶ事もまた盛んである.学内柔道は常に優勝候補であり,Ortho のマークの野球ユニフォームは背番号入りである.1月1日は教授室での無礼講新年会があり,新医局員歓迎花見,医局温泉旅行,海水浴,忘年会は定例であり,論文通過,出張者の歓送,さらに教授自ら丹精される「高瀬農園」のリンゴ狩り,サツマイモ掘りは教室員家族ぐるみの楽しみである.かようによく学びよく遊ぶ教室で育った医局員であるから各病院に勤務しても,開業してもまだ不成功に終わった例は聞いたことがない.教授のただ1つの悩みは,医局員が不足している事なのである.」
(昭和42年6月10日付十全同窓会会報より引用)

当時開講12 年目で,同窓会員は110名を越えたが関連病院は37に及んでおり,関連病院に十分医師を派遣出来ないのが現状であった.昭和43年(1968)11月 10日,11日には開講15周年記念行事を行った.その際,1.映画一下腿延長術,札幌医大,河郁文一郎教授,2.映画,腕神経叢引き抜き損傷に対する対策:殊に肋間神経移植について,東大,津山直一教授,3.股関節の力学的構造,京大,伊藤鉄夫教授,4.大腿骨頭の虚血症候の病理とその治療,阪大,水野祥太郎教授,5.骨折治療変遷の回顧,九大,天児民和教授,6.癌の骨転移,国立ガンセンター総長,久留勝先生の記念講演が行われた.

 ひきつづき昭和44年(1969)7月には第2回日本整形外科学会骨腫瘍研究会を十全講堂で主催した.また昭和46年(1971)6月18日には第36回中部日本整形外科災害外科学会を主催(観光会館)した.これらの業績が認められ,昭和45年(1970)11月3日,高瀬教授は北国文化賞を受賞,翌昭和47年(1972)4月6~8日には第45回日本整形外科学会総会(鶴光会館)を開催するに到った.教室開講19年目であった.一般演題182題,映画演題7個が発表され,又,シンポジウムとして「腰痛(変形性脊椎症と腰痛症)」「関節連動のバイオメカニクス」,「整形外科領域におけるRIの診断的応用」の3題が選ばれた.この時の高瀬教授の会長講演は「不治激痛に対する手術的鎮痛法の吟味」というタイトルであった.当時は学園紛争の渦がまだ冷めやらぬ頃であったが,教室同門が一致協力して学会を盛り上げ危倶された騒動もなく盛大に終了した.昭和47年(1972)6月1日に金沢医科大学が開学した.そして,高瀬教授の推薦により東田紀彦富山県立中央病院整形外科医長が同門では初の整形外科学教授に選ばれた.(昭和47年4月より金沢医科大学助教授就任,昭和49年4月教授就任)

 翌,昭和48年(1973)開講20周年記念会(金沢大学医学部記念館)が行なわれ,「同門会報(開講二十周年記念)」も発行された.この年高瀬教授は医学部長に就任されており,教授職の残り3年問を医学部の発展に尽くし,昭和51年(1976)3月31日定年退官された.これに先立ち3月20日~21日,全国各大学から名誉教授・教授やその夫人方27名をお迎えして退官記念会が行われ(山中温泉「河鹿荘」),「同門会報(高瀬教授退官記念)」,「高瀬武平教授退官記念業績集」が発行された.4月1日,高瀬先生は名誉教授に就任され,この年の5月15~16日第77回日本医史学会を主催(十全講堂)した.この学会はユニークなものであり,金沢大学の蔵書やその他珍しい古医書を集めて展示したり古い医療器械・薬棚を借りまわって陳列した.また,日本に4体しか残っていないという貴重なキュンストレーキ(人体模型)も展示した.