金沢大学附属病院 整形外科

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整形外科 歴代教授:野村 進

 昭和51年(1976)6月1日をもって野村進助教授が第2代整形外科学教授に就任された(52才).6月19日白雲楼で教授就任祝賀会が高瀬名誉教授の就任祝賀会とあわせて行なわれ,120名近くの同門会員でお祝いした.野村進教授は開講以釆のスタッフの一員で長らく助教授として高瀬教授を補佐し教室を育ててきたので教室の良い伝統はそのまま受け継がれた.
 
 この時点で教室開講後23年がたっており,同門生からも優れた人材が各大学の教授に抜擢された.昭和51年(1976)11月1日に山崎安朗部長(富山県立中央病院整形外科)が本学助教授に就任後,昭和52年(1977)7月1日付で金沢医科大学教授に就任された.かわりに井村慎一講師が本学助教授に就任した.昭和53年(1978)2月には立野勝彦講師が金沢大学医療技術短期大学部教授に就任された.また,高瀬名誉教授が10 月1日付で福井医科大学初代学長に就任された.昭和55年(1980)4月山口昌夫先生が,医療技術矩期大学部教授就任・昭和56年(1981)4月には井村慎一助教授が福井医科大学教授,吉村光生講師が福井医大助教授にそれぞれ就任された.当科では,島巌講師が助教授に就任・富田勝郎講師(現教授)が医局長に就任された.

この問,昭和52年(1977)にはかねてから骨腫瘍を通じて深かった高瀬,赤星教授との親交をきっかけに,岐阜大学整形外科との第1回親善野球大会が岐阜,金沢からの等距離地点である敦賀市で開催された.以後現在まで10回にわたりそれぞれの地で交互に野球交歓試合が続けられている.

また,昭和53年(1978)10月26日に野村教授が発起人となって第1回末梢神経を語る会を金沢市で開催した.また11月21~23日に野村会長のもとで第51回中部日本整形外科災害外科学会(金沢市観光会館)を主催した.

 昭和57年(1982)4月,野村進教授が病院長に就任された.昭和57年(1982)11月21日,高瀬名誉教授(福井医科大学初代学長)が72才で逝去された.葬儀は天徳院で盛大に行なわれ,同門はもちろん全国から多数の弔問客があった.同門会でも高瀬教授の遺徳を賛え,1周忌に「高瀬武平遺稿」(昭和58年11月10日)を,3回忌には「同門会報(高瀬名誉教授追悼号)」(昭和59年11月20日)を編集した.
 
 さて,野村教授の時代でもっとも大きく変わった点は,現富田教授を嚆矢として,多数の医局員に海外留学の機会を与えられたことである(毎年1~2名の医局員計22名).海外生活において広い知識と視野を身に付けさせようとの配慮であり,当時としては,国際化時代を先取りしたものであった.野村教授はどんどん新たな時代に即したものも取り入れられた.昭和56年 (1981)2月,整形外科の病棟がそれまで3病棟1階(今の第3内科学教室)にあったものが3病棟4階へ移転され,続いて昭和59年(1984)4月1 日大学病院外来棟が更に西側に増築されたので,ここに整形外科外来(新館外来棟1階)が移転され,現在の外来診療体制が出来上がった.

 同門会では,昭和58年(1983)には開講30周年を迎えた.しかし,高瀬名誉教授の喪中でもあり祝賀会等は行なわず,「金沢大学整形外科開講30周年記念誌」を発行するのみとした.それまで年に1回1泊2日で行なっていた同門会総会は会員数が200名を越えたので,1泊宿はなかなか見つからず,日帰りになったのもこのためで,以後何かの大きな行事の際などに適宜1泊2日の同門会を組み込んでいくことになった.
 
 昭和59年(1984)5月10~12日,野村会長のもと第27回日本手の外科学会(金沢市文化ホール)を主催した(外国人講演者Chen Z.W,Biemer E,Shaw WW,Terzis JK)この学会では,野村教授の努力によりはじめて手の外科学会誌が発刊された.また手の外科学会のシンボルマークが決定され,公開とともにシンボルマーク入りのループタイが記念品となった.
 
 昭和60年(1985)1月1日,島巌助教授が石川県立中央病院へ転任され,富田勝郎講師が助教授に就任された.昭和61年(1986)4月には,野村忠雄助手が医療技術短期大学部教授に就任された.これに先立ち昭和60年(1985)4月,岐阜大学主催の第58回日本整形外科学会総会で基礎学術集会がつくられることが決定され,その創設会長として野村教授が選出された.昭和61年(1986)8月31日~9月1日野村教授は栄えある第1回の日本整形外科学会基礎学術集会(金沢市文化ホール)を主催した.外国人講演者としてアメリカ整形外科基礎学会会長Lewis JL,カナダ整形外科基礎学会会長Rorabeck CH,オーストラリアからのLowther DAとピッツバーグ大学のMears DCを招待した.学会終了後,実践倫理会館で参加者全員(約1,000人)による大発会記念パーティーを盛大に行なった.この学会の成功がひな型となって以後,現在の学会の発展を導いている.このことは野村教授が長年教室の充実をはかり,神経,骨腫瘍,脊椎,関節,手の外科など幅広い分野で基礎的研究を進めてきた成果が認められたものであり,また,研究の国際化などに向けて情熱を注いできた賜物であるといえよう.

 こうして教室はますます充実し,まとまりの良い雰囲気の中で診療,研究が行われた.野村教授時代には入局者が10 名以上の年もあったが,40余りの関連病院をカバーするには足らず,医師過剰時代突入といわれながらも整形外科では慢性医師欠乏状態が続いた.この頃の大学病院での手術件数は年間900以上となり入院も常に1ヵ月以上待ちという状態であった.昭和63年(1988)7月21~22日には,第21回日本整形外科学会骨・軟部腫瘍研究会(石川厚生年金会館)を主催して好評を博し(外国人講演者Dahlin DC, Plager JE ),これが野村教授現役最後の年のしめくくりの仕事となった.
 
 平成元年(1989)3月一杯で野村教授は退官されることとなった.3月25~26日,全国各大学から名誉教授・教授やその夫人方52名及び同門会会員209名の御出席をいただき盛大な退官記念式が行なわれ (ホテル「百万石」),「同門会報(野村進教授退官記念号)」と野村教授のライフワークを示す「末梢神経損傷文献集」,「野村進教授退官記念業績集」が刊行された.野村教授は教授在任13年間の後半5年間に3回もの全国レベルの学会を立派に成し遂げられ,4月には金沢大学名誉教授に就任された.

 野村教授時代の学会活動や研究生活は確かに忙しかったが又,レクリエーションも盛んであった.教室の行事は1月教授宅での新年会に始まり,4月,新入医局員を桜と見立てた花見会,6月の同門会,12月の忘年会で締め括っていた.この間に5ヶ月毎の病室,外来メンバー交代コンパ,歓送迎会,野球,ゴルフ,海水浴,テニス,スキー,マージャン大会など目白押しで,特に野球は学内では常勝,日整会野球大会でも計4回の優勝を誇った(平成17年までに、計8回).このように,明るく楽しい医局をつくられたのは野村教授のお人柄によるものである.